中尾山の波佐見焼
2017年 09月 25日
波佐見焼の中尾山にやって来ました。
予備知識がほとんどありません。
駐車場は どこ?
とりあえず、てっぺんまで行きます。
(後で頂いたパンフレットに、公式サイト&アプリの紹介が!
『中尾山なび』で検索すれば、山の窯元のmapが出ます。)
駐車場は、各窯元にもあるそうですが、
Pの案内標識のあった交流館Pに
駐めてよかったみたいです。
現在の中尾山の波佐見焼は、
1644年に始まったそうです。
今は、8本の古い煙突と、世界最大の登り窯跡。
20を越える窯元。
大村藩の藩窯だった窯元から、
芸大を出た作家さんの窯まで、多彩。
『陶房 青』、『一真陶苑』、『筒山太一窯』、
『大新窯』…。
目移りしそうです。
(開店していたらば ね。)
そもそも、波佐見焼は、
慶長3年(1598年)、文禄・慶長の役に参加した
大村藩主 大村喜前が、
朝鮮の陶工 李祐慶兄弟達を連れて帰り、
翌年の慶長4年、波佐見町村木の
畑ノ原、古皿屋、山似田の3か所に
連房式階段状 登窯を築いたのが始まりです。
波佐見焼といえば、染付と青磁が特徴的ですが、
村内で磁器の原料が発見されて、
大村藩の特産品となりました。
江戸後期には、染付の生産量日本一。
巨大な連房式登窯で生産をし、
手頃な価格で全国へ販売。
製造されるほとんどは日常食器で、
「くらわんか碗」
と呼ばれた、丈夫で壊れにくい製品でした。
※ 江戸時代に、枚方宿(大阪府枚方市)で、
水上の商売船から、
「酒くらわんか。飯くらわんか。」
と、降り売りしたそうです。
また、当時の外国人が、
お醤油や酒を自国へ持ち帰るのに
容器として使った『コンプラ瓶』も有名。
コンプラドール(仲買人)という
ポルトガル語が語源。
文豪トルストイは、コンプラ瓶を
書斎の一輪挿しに していたそうですよ。
今回初めて知ったことですが、
昔は、有田藩、大村藩、三川内藩と、
『薪炭材をめぐる激しい諍い』
が、長くあったそうです。
特に、3藩が接する幕の頭(まくのとう)という山では、
お互いに領地を侵して薪を盗みあい、
山のなかで乱闘、殺人も起きていたとか…。
今も、山頂には『三領石』という三角柱があります。
領地を明確化させるために 立てたそうです。
また、
"産地を明確に表示する法律ができる前は、
波佐見焼という名称は使わず、隣の有田焼に混ぜて
有田焼としても売られていた"
という話も聞きました。
(が、真偽は分かりません。)
いつも想うのですが、
歴史には光と陰があります。
"後世に、ご先祖の素晴らしい話を伝えたい"
のは人情ですが、歴史も人文科学。
科学に嘘はだめだよね。
今風にストーリーを作らず、引かず足さず、
リアルを伝えてほしいと思います。
懸命に生きた当時の人の有り様は、
日本中、どこも ほぼご同様。
田んぼで稲を作るお百姓は、
水をめぐる血みどろの諍いがあった
と聞きます。
陶芸の里では、薪炭材を争ったというのは、
さもありなん。
非常に興味深い話です。
『400年間、陶器と生きた人が住む』
と思えば、
一見、どこにでもある山里の中尾山が、
なんだか凄く見えてきます。
by Taseirap
| 2017-09-25 07:30
| 長崎県
|
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