2018年 03月 03日 ( 1 )

草戸千軒の謎

『草戸千軒(くさどせんげん)』をご存知ですか?

福山市の芦田川の中州に鎌倉時代からあった町。
「大雨の洪水により、一夜にして、町は跡形もなくなった。」
と、江戸時代から言われていた ”幻の町”。

私もずっと そう思っていました。
でも、どうも違うみたいです。
えー。 どういうこと?

JR福山駅の北側、福山城のすぐそばの
ふくやま草戸千軒ミュージアム
(広島県立歴史博物館)
に行ってみました。

c0325278_17195317.jpg

こちらの展示室は、広島の備後や安芸の視点から、
陸と海の歴史が上手くまとまっていて、
とても面白いです。

地方には地方の歴史あり。

大内義長氏なんて『日本国王の印』まで
作っていたり…。
室町時代の勘合貿易は、ある部分、
防府の大内氏がしていたともいえる。

(印の材は桜。10.1cm四方。「日本国王之印」。
日明貿易の際に、明から送られた金印は戦乱の間に
無くなってしまった。
だから、代用品を作って、パッパッと押していたわけ。
大内氏の滅亡後、毛利元就が入手し、
実物は毛利博物館に。
福山には、レプリカがあります。)

さて、
なぜノアの箱舟風の伝説が伝わったかというと、
『備陽六郡志』のせい。
江戸時代中期の福山藩士の宮原氏が書いた書物。

「往昔、蘆田郡、安那郡邊迄海にてありし節、
本庄村、青木か端の邊より五本松の前迄の
中嶋に、草戸千軒と云町有けるか、
水野の家臣上田玄蕃、江戸の町人に新涯を築せける。
水野外記と云ものいひけるは、
此川筋に新涯を築ては、
本庄村の土手の障と成へしと、かたく留けれとも、
止事を不得して新涯を築、江戸新涯と云。
其後寛文十三年癸丑洪水の節、
下知而、青木かはなの向なる土手を切けれは、
忽、水押入、千軒の町家ともに押流しぬ
此時より山下に民家を建並、
中嶋には家一軒もなし。(後略)」

という衝撃の記述。
"草戸千軒が、寛文13年(1673)の洪水で、
一軒残らず流されました。"

そう読めるよね~。
でも、その後の発掘調査等で、
『こりゃどうもおかしい。』

草戸千軒が町として機能した最終段階は、
16世紀初頭である。
この段階で、それまで使われていた井戸や溝などの
施設は、一斉に埋められている。
また、遺跡発掘しても、洪水で埋まったような
痕跡は見つかっていない。
17世紀以降も、わずかに井戸や池・溝などが
作られてはいるが、池や溝は耕作地に
関連するものと考えられ、
井戸もかつてのような密度では分布していない。

以上のようなことから、
草戸千軒の町の最終段階は、洪水の前、
16世紀初頭である。

また、多くの施設を意図的に埋めていることから、
町の消滅は、洪水のような自然災害ではなく、
政治的・社会的な要因による可能性が高い
と考えられる。

以上が現在の見解。

宮原氏の書物は、長期間かけた変遷を、
短時間での出来事のような印象を読者に与えたこと。
また、伝聞だけの事実を
水害を警戒させるために
『つい、筆が滑って記述した』
と、判断されています。

さて、当時の人の暮らしは、博物館に
素晴らしいレプリカ模型があります。
お写真をご覧ください。

c0325278_17224387.jpg

c0325278_17232276.jpg

c0325278_17242559.jpg

c0325278_17250337.jpg

c0325278_17252659.jpg

c0325278_17234980.jpg

c0325278_17261289.jpg

遺跡で発掘された大量の木簡(もっかん)は、
30年にわたり研究されています。

素人考えですが、資料をネットで公開して
古文書が読める人が
ボランティアで解読してくだされば、
益々研究は進むのでは?
『古文書を読む』なんてサークルもありますよね。

全盛期は、こんな町だったのかなぁ。

c0325278_11172469.jpg

秋には、第2展示室がリニューアル。
『黄葉夕陽文庫の世界』が開設。
菅茶山の私塾がよみがえるそうです。
楽しみです。



菅茶山(1748~1827)は,教育者として
備後国神辺(現在の広島県福山市神辺町)に
私塾「黄葉夕陽村舎」(のちに藩の号塾「廉塾」)を開設して人材の育成に尽力するとともに,
江戸時代後期を代表する漢詩人として活躍した人物です。
彼の漢詩集『黄葉夕陽村舎詩』は同時代の人々に高く評価され,多くの学者や文人たちと交わりを結びました。









More
by Taseirap | 2018-03-03 07:30 | Hiroshima | Comments(0)

メキシコと日本の暮らし


by Taseirap
プロフィールを見る
画像一覧
通知を受け取る